ほりみりおから見た世界

オリジナルスケジュールノートと、より良い明日のための深い思いの発信基地

贅沢は言わないから、みんなと同じ自由がほしい

 

自由がほしい――。

 

いままでこのように思ったことが、幾度あったことだろう。

思えば1年の間に何度も、同じような感情を抱いてきた。そんな年が毎年のように訪れた。

 

 

 

そもそもわたしにとっての自由とは、一体何なんだろう。

 

世間一般的には、お金が十分にあって、健康で、自分の好きなタイミングで自分の好きなことが出来るということが、自由と定義されている。

 

しかしながら、わたしにとっての自由とは、もっと低い次元のことを言っていると思う。

 

わたしにとっての自由とは、ありのままの状態で、ごくふつうの暮らしが送れることである。

 

ふつうに暮らせるだけでいい。

 

それはすなわち、電車に乗っていて目の前で傷つくようなことを話されたり、他の子たちが当たり前のように認められていることを「あなたはダメです」と禁止されることであったり、トイレに行くときに他の誰かに気を遣ったりとか、自分と似た境遇にある人が地球の裏側でヘイトクライムに遭い、何十人も殺されたというニュースを見聞きしたりとか、そんなことがない、ごくふつうの暮らし。それが欲しい。

 

 

 

わたしは男の子としてこの世に生を受けたトランスジェンダーで、性自認は女の子だ。

 

そんなわたしが「ありのままの状態で、ごくふつうの暮らしを送る」ことは、少なくともいまのこの国ではかなり大変だと言わざるを得ない。

 

命の危険にさらされないだけマシなのかもしれない。そう思えることだけが唯一の救いだ。

 

性自認が女性なので、普段の服装も女性のそれに近い。

とはいえまだ「自分は女性だ」という性自認を確立できてから時間が浅いため、身体的な整合性は取れていない。それゆえの違和感を、第三者は感じ取るのだろう。

 

とはいえ、目の前で悪口は言わないでほしい。

わたしだって、わたしのペースで努力している。

その努力がまだ十分に結果に反映されていないのは申し訳ない。

それで生理的な不快感を与えているかもしれない。

 

自分がまだまだだということは、自分が一番わかっている。

だから、そっとしておいてほしい。

悪口が言いたければ、本人のいないところで言ってほしい。ただそれだけのことだ。

 

 

 

もしわたしが生まれたときから女の子だったなら、わたしも周りの女の子のように、肩よりすこし長い艶やかな髪で毎日を生きることができたのだろうか。

 

でもわたしは、そうではない。だからわたしは、あの子のように肩よりすこし長い髪で今の仕事をすることは叶わない。

 

「少し髪が長いので、髪を切ってください」。

 

そうわたしを注意した上司は、わたしの返事を聞くとそのまま通り過ぎていった。

 

その髪は後ろできっちり結わえられ、ポニーテールの先は襟よりすこし下にあった。

 

 

 

ご飯を食べ、飲み物を飲めば、どうしてもトイレには行きたくなる。だがどうして、わたしはトイレに行くことさえためらいを持たなければならないのだろう。

 

スカートを身に纏ったわたしが男子トイレに入るのは、やっぱりおかしいことなのだろうか。だからといって女子トイレに入れば、トラブルに巻き込まれるかもしれない。バリアフリートイレには、本当にそれが必要な人が来たら申し訳なくて入れない。そうしてわたしは、結局トイレに入れなくなる。

 

トイレに入る――。たったそれだけのことなのに、どうしてこんなにも悩まなければいけないのだろう。

 

 

 

まだこの国では、性的マイノリティであることを理由とした大規模な殺人事件は発生していない。それは本当に不幸中の幸いだと思う。

 

でも、それは果たしていつまで続くのだろう。これだけグローバル化が進んだ世界では、もはや日本でもそのような殺しが起こることは、時間の問題かもしれない。わたしがその恐怖に怯えることなく暮らせる日は、やってくるのだろうか。

 

 

 

自由が欲しい――。

 

ありのままの状態で、ごくふつうの生活が送れる。そんな自由が欲しい。

 

なぜ多くの人たちはその自由を享受できているのに、わたしはその自由を享受することが叶わないのか。

 

そりゃあ、叶わない夢なんて五万とあることぐらい理解している。

でも、この自由は、「叶わない」とあきらめなければいけない夢なのか。夢のまま終わらせなければならないのか。

 

もしそうなら、わたしは何を希望にすえて、この世界を生きていけばいいのだろう。

 

自由が、欲しい――。

 

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